気が付けば、4月から全然更新出来ずに子供達の新学年が始まってしまいました!この4か月間、本当に色々な事がありすぎて、身心共に大変な時期になってしまいました。
まず、4/5-4/21は春休みで日本に一時帰国していました。その間、自分の実家と夫の実家にも行き、慌ただしくも充実した日々を過ごしました。この時、母の持病が悪化していたので入院していた母を何度もお見舞いに行きました。ですが、私達が日本を出発した去年の10月より明らかに衰弱していて、話も満足に出来ない状態だったのがとてもショックでした。その辺りから、父の足の調子も日々悪くなり、杖を付いて歩くような状態に…。両親が(特に母)本当に心配でしたが、子供達の学校も始まるので、取り合えずマレーシアに戻ったのですが、マレーシアに着いたその日のお昼頃、父から「母の状態が急変したので戻ってきて欲しい」との連絡がありました。夫がJALに直接電話して次の日の夜便を取ってくれたので、次の日の夜に一人で日本に向かいました。朝に日本に到着し、まず実家へ向かい、父と一緒に母の入院している病院へ向かったのですが、母はもう意識がほとんどなく、痙攣していました。こんな状態の母を一人に出来ないと思い、その日はそのまま母の病室に一緒に泊まる事にしました。意識が朦朧とする中、母が必死に携帯を指さすので、きっと親しかった友人に連絡を取りたいのかなと思い、一番長く親しかった方に連絡しました。母は友人が沢山いたので、全員に連絡したかったのですが、そうなるとみんながどっと病院に来てしまうのもちょっと大変かな?と思い(でも後で皆さんに連絡しておいたら良かったと後悔しました)取り合えず一番お付き合いの長い友人お一人だけ連絡しました。その夜は母の好きだった音楽をかけたり、私が一方的に母に話したりしているうちに母の痙攣も治まり、2人でゆっくりした時間を過ごす事が出来ました。
次の日、母は意識がありませんでしたが、容体が落ち着いていたので、今夜も泊まるつもりで、近くのユニクロに服と下着とパジャマを買いに行ってきました。本当に不思議なのですが、母が隣にいるようで、私の頭に直接話しかけてくるような感じでした。母が好きだった銀座が近くだったので、一緒に鳩居堂へ行ったり、三越でお昼を食べたり…。母と一緒に銀座に来た頃とはお店も少し変わってしまっていましたが、一緒に話しながら銀座をぶらぶらして来ました。母がもっとも好きだった歌舞伎座にも寄りたかったのですが、なんだか胸騒ぎがして、急いで病院へ戻りました。病室に戻ると、昨日連絡した母の友人が病室に来てくれていて、母に話しかけてくださってました。本当に嬉しくて、2人で話していると、弟夫婦も来たので(母の友人の息子さんと弟が同級生)みんなで昔話に花を咲かせていました。懐かしくみんなで笑っていると、看護師さんが「血圧が急に下がってきてます」というので、慌てて何度も呼びかけましたが、あっという間に旅立ってしまいました。
母は再生不良性貧血という病気を患っており、19年間闘病してきました。亡くなる1年半前にはコロナにも罹ってしまい、その後なかなか体調が優れず、不眠に悩まされ、最後は敗血症による多機能不全で亡くなりました。長年通院していた病院に不信感が出て転院した先で見つかった鼻腔の病気と腸に穴が開いていた事、その手術をしてもやはり病には勝てなかった事、もっと早く転院していたら…という後悔や、まだ69歳という若さで亡くなった事など、やりきれない思いで一杯でしたが、病の苦しみからやっと解放された母の事を思うと、辛いけれどもその点だけは良かったと思いました。
丁度母が亡くなる辺りから、父の足が全然動かなくなってしまいました。とうとう車椅子になってしまい、母の葬儀が終わってからしばらくして父も入院し、椎間板の手術をしました。手術は成功したのですが、足は一向に動かず、鼠径部にしこりがある事を父が発見したので、今度はしこりの摘出手術をしました。病理検査に出したところ、悪性リンパ腫と分かり、ステージ4と診断されました。実は母の告別式の早朝に叔父も亡くなってしまい、こんなに悪い事が立て続けに起こるなんて、何か悪い事したかしら…と思うような出来事の連続でしたが、悲観している暇もなく、父の介護に追われる日々でした。
父の退院後、子供達の事もあるし、いつまでも主人に子供達を任せておくのも大変なので、一度マレーシアに戻りました。幸い父の友人でヘルパーの仕事をしている方(Kさん)が父の面倒を見てくれるというので、父の事はしばらくその方にお任せする事にしました。父と同居している弟、義理妹のYちゃん、Kさんのお蔭で、あまり心配なくマレーシアに戻ってこれた事は本当に感謝です。
その後、母の四十九日までしばらくマレーシアから遠隔で四十九日の用意をしました。高島屋の冠婚葬祭担当の方が本当に親切に色々と教えてくださり、また、皆さんの協力もあり、無事に四十九日も終える事が出来ました。父は母、兄をほぼ同時に亡くし、自分自身も病や足が不自由になった事から、家族や近しい人に八つ当たりして、薬も飲んでいるにもかかわらず、お酒の量がとても増え、だいぶ荒れていました。気持ちは本当に良く分かりますが、私達も悲しい中八つ当たりされながら介護するのはかなり堪えましたが、もう、どうしようもないですね。日々、子供に戻っていく父をどうする事も出来ませんでした。
母と叔父の四十九日を終えた次の日にまたマレーシアに戻ってきました。子供達と夫にも私の不在中は色々大変な思いをさせてしまいました。感謝しかありません。その後2週間とちょっとですぐに夏休みになり、また日本に戻ってきました。今年の夏は夫は多忙で夏休みが取れないとの事なので、子供達と3人で一時帰国です。子供達には2度の長期の留守番や大好きだった”ばあば”が亡くなってしまった事など、色々悲しい思いをさせてしまったので、子供達の行きたいところなど、なるべく行こうと思って頑張りました!また父の変貌ぶりに戸惑ってしまった子供達をあまり父に会わせたくない気持ちもあり、1日おきに交代でヘルパーのKさんと私で父の介護をする事にしました。ですが、変貌してしまった父にも優しく話しかけてくれた我が子達に心底感心しました。本当に良い子達に成長してくれたと思っています。孫には父も気持ちが和らぐのか、ニコニコしていました。
私達がマレーシアに戻る日が近づいてくると、父が急にしょんぼりする様になりました。可哀想ですが、いつまでも日本に居られないので、「また戻って来るからね」と言って、Kさんと弟、Yちゃんにまた父をお願いする形でマレーシアに戻ってきました。マレーシアは日本よりずっと涼しく過ごしやすいので、本当にびっくりしました。日本よりずっと南に位置するのに、こんなに過ごしやすいなんて、やはり温暖化なのでしょうか…。
学校が始まるまで10日間ほどあったのですが、すっかり疲れ切ってしまい、しばらくぼーっとしてしまいました。
こんな訳でしばらくブログも更新出来ませんでした。でも、こうして改めて文章にしてみると、結構頑張ったな、と思います。身心共に激動の4か月間でしたが、その間、自分が思うように動けて、こうして今も元気に過ごせているのは、家族のみんな、親戚の皆さん、お友達の皆さん、母の友人のおばさま方、関わって頂いた全ての皆さんのお蔭です。本当にありがとうございました。この場を借りて感謝申し上げます。
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